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与謝野晶子(1878-1942)

明治から昭和にかけて活躍した歌人・作家にして思想家。1901(明治34)年刊行の処女歌集『みだれ髪』、日露戦争下に歌った『君死にたまふことなかれ』などが代表作として名高い。女性の自立も説き、1921(大正10年)には夫、与謝野鉄幹らとともに文化学院も創設した。

与謝野晶子 歌碑

かまくらや御ほとけなれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな 晶子

晶子直筆の歌が刻んであります。碑の左側面には「鎌倉大仏造立七〇〇年記念奉賛 昭和二十七年四月 味の素株式会社」と刻まれ、右側面には歌のローマ字綴りと、英訳、更に英文の建碑由来が刻まれています。また、この歌は「恋衣」に収められています。

> 歌碑mapへ   ※No.17が与謝野晶子歌碑です。

かまくらやほとけなれども御姿の 美男におはす夏木立かな 晶子

かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼ハ 美男におはす夏木立かな 晶子

晶子が大仏を「釈迦牟尼」と詠んだことに対して、川端康成と吉野秀雄はそれぞれ次ぎのような文章を残しています。

与謝野晶子の歌碑が建ったと聞いているので、裏の方へ行って見ると、晶子自身の字を拡大して、石に刻んだものらしかった。「やはり、(釈迦牟尼は・・・)となっているね。」と信吾は行った。しかし、房子はこの人口に膾炙する歌を知らないので、信吾はあきれた。鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはすと晶子は歌ったが、「大仏は釈迦じゃないんだよ。実は阿弥陀さんなんだ。まちがひだから、歌も直したが、釈迦牟尼は、で通ってる歌で、いまさら弥陀仏はとか、大仏はとか言ふのでは、調子が悪いし、仏という字が重なる。しかし、かうした歌碑になると、やはりまちがひだな。」

山の音 川端康成 筑摩書房

晶子自身後年このあやまりを指摘されてか、「仏なれども大仏は」と改作した短冊も現に残ってはいるが、これでは歌として三文の価値もない。原作のままでいいんだ、と。
この点をも少しいふと、第一、『新編鎌倉志』でも、『鎌倉攬勝考』でも、『新編相模風土記』でも何でもいいから、大仏の条に引かれた古文献を見るがいい。同じ大仏がルシャナとも、アミダとも、シャカとも唱へられ「吾妻鏡」の建長四年八月の大仏鋳造の記事だってアミダとはなく、「釈迦如来像」とあるのだ。
人差し指をまげるかまげないかの定印の区別など、まちがへたって年若かった晶子の恥ともいへず、一般大衆には何のかかはりもありはしない。─略─
それにも増してシャカを「美男におはす」と断言したところに、読む人をおどろかし、よろこばせる原因のあったことはいふまでもない。─略─

吉野秀雄全集3 筑摩書房

註 鎌倉の大仏は上品上生という弥陀の定印を結んでいます。